読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

虫に鳥にも

読んだもの、見聞きしたものの記録に。

加賀乙彦『死刑囚の記録』 その3 濃縮された時間

死刑(読書記録) 精神・心理学(読書記録)

 

kinglog.hateblo.jp

△前回の記事の続きです。ちょっと長くなってしまいました。

 

 本書は7章構成、「あとがき」を含め全233頁の新書です。その多くが事例紹介であり、東京拘置所で出会ったゼロ番囚たちについて、その妄想や、陽気な性格、冤罪、宗教などに着目して、彼らとのやりとり、特異な症状などが描かれています。

 それはそれで物語を読むような面白さがあるのですが、今回見ていくのは、一斉調査の要旨をまとめた7章の後半部分と「あとがき」(219-233頁)にあたります。著者自身の考えがこの短い頁にぐっと詰まっていて、それまで「観察者」「研究者」の目線から大きく外れることのなかった著者の内部を垣間見るような、ここが本書で最も盛り上がる部分ではないかと、私は思っています。

 

▶濃縮された時間とうすめられた時間

 前回では、死刑囚の拘禁ノイローゼが、動きの多い、エネルギーを発散させるような症状を見せるのに対して、無期囚は鈍感な子どものような、刑務所ぼけの状態になるということを見てきました。もともとは重罪被告であった者が、判決によって死刑囚になる者もいれば、無期囚になる者もいるわけですが、この対極ともいえる違いは、どこから生まれるものなのでしょうか。

 著者は、時間の観点から、まずは死刑囚について以下のように述べています。

 ……刑の執行は午前十時頃で、その直前に、予告がおこなわれる。……刑の執行がおこなわれる可能性は、その日の朝、おむかえがなければ、週日なら二十四時間後、土曜日や祭日の前なら四十八時間後にあるということになる。

 未来が、二十四時間から四十八時間に限定されている。ごく短時間後に生の終りを想定して日に日に生きねばならぬのが死刑囚の状況である。

 ……躁状態にあって溢れるような連想と多弁で動きまわる者は、言わば“濃縮された時間”を生きているのだ。それは生のエネルギーがごく短い時間に圧縮されている状態である。(219‐220頁)

 さらに、無期囚についてはこのように考察を続けます。

 死刑囚の濃縮された時間の対極に、無期囚の“うすめられた時間”がある。

 ……そこでは一切の自由は失われた灰色の時間が、ゆっくりと流れるだけである。……もっとも楽なのは、刑務所のうすめられた時間を受けいれ、それに飽きないように自分自身を変えていくことである。彼らがおちいっている刑務所ぼけの状態こそ、うすめられた時間への適応を示すものである。(221頁)

 

▶死刑囚の時間とわたしたちの時間

 (2)で紹介した死刑確定者の松川勝美は、著者から死刑確定(上告棄却)の判決を受けた際の心情を尋ねられ、「不思議な感じがした」と答えています。

「……日時がたつにしたがって、自分というものと犯罪とが切り離されて感じられてくるんだよ。……犯罪がぼんやりしているうえに、自分は殺されるためだけに、オマンマ食って生かされてるのが、不思議な感じがしてくるだよ」(95-96頁)

 死刑囚は死ぬために生かされている状態だということもできます。「近い未来」に死があり、何をしていても死のことを考える。日本の死刑制度においては、死刑の宣告は当日の朝ですから、夜にご飯を食べているときも「これが最後の晩餐かもしれない」、入浴しているときも「これが最後の風呂かもしれない」、寝る前にぼんやり明日の予定を考えるときも「明日の今ごろにはもう死んでいるかもしれない」という感覚がつきまとうのではないでしょうか。

 しかし――と、著者はここでもう少し踏み込んで考えます。しかし、人間は死刑囚なのではないか、と。

人間の死はいつ来るか分らない。しかも私たちの未来に確実におこる出来事は死だけである。とすれば、死刑囚と私たちとは、時間のあり方の本質においては同じだと考えられないか。(224頁)

 死は誰にでもやってきます。それは遠い未来かもしれませんが、不意に、近いうちに訪れるかもしれません。誰もそれがいつ来るかなんて知り得ないし、誰もがいつかくるそれに怯えます。自分の死や、大切な人の死のことを考えて眠れない……そんな長くて苦しい夜を、人は人生のうちで何度も何度も乗り越えなければなりません。けれども、いくら乗り越えても、死そのものからは逃げられない。

 はたして私たちとて死ぬために生きているのではないか。いったい死刑囚と何が違うというのか。

 この問いかけに対して、著者は「まだ結論がえられないでいる」と前置きした上で、「時間の構造からみれば死刑囚」だが、「私たちの日常生活は、死刑囚と違うと言いたい」と答えています。

死よりのがれるために人間は気ばらしをする。が、気ばらしができ、死を忘れうる人間は、それだけでも、すでに死刑囚と違うのではないだろうか。……死刑囚は、ノイローゼになることによって死を忘れるのである。……気ばらしは彼らにあっては拘禁ノイローゼそのものだのだ。(226-227頁)

 さらに著者は、熱心な宗教者でもあった正田昭という死刑囚が書き残した日記に触れ、このように述べています。

〔正田は日記に〕「死刑囚であるという状態は、悪人として死ねと命令されていることだ」とも書いている。……だから、死刑囚の死は、私たちの死とは違うのだ。それはあくまで刑罰なのであり、彼はさげすまれて死なねばならないのだ。(227頁、〔 〕内は引用者補足)

 

(5)さいごに

 

▶死刑は残虐な刑罰か

 これまでの流れからおおよそ見当がつくと思いますが、本書の最後、「あとがき」において、著者ははじめて自らの立場、つまり「死刑は残虐な刑罰であるから廃止すべきだ」という考えを表明します。死刑制度の賛否については社会的立場の影響するところが大きいので、精神医の立場で囚人を診察してきた著者が死刑制度の廃止を訴えるのは不思議なことではありません。

 絞首刑は残虐ではないとの判決が最高裁判所で出ていますが*1、著者はその判決が絞首の方法にしか着目していない点を批判し、

死刑の苦痛の最たるものは、刑執行前に独房のなかで感じるものなのである。……彼らは拘禁ノイローゼになってやっと耐えるほどのひどい恐怖と精神の苦痛を強いられている。これが、残虐な刑罰でなくて何であろう。(231頁)

と主張しています。

 

▶ひとつの立場から出発する

 本書全体を通して、著者は死刑囚に対する関心が強く、被害者側の視点は欠如しています。死刑制度は、その是非を考えるとき、あらゆる方面からの判断――法、社会、政策、人権など――が求められますから、対立を避けることはできません。それは、死刑存置論者と死刑廃止論者の対立のみならず、ひとりの人間の中ですら対立するだろう、と思います。

 ここで、ひとつのアプローチとして「残虐な刑罰*2」という争点に絞ってみても、「絞首刑は残虐じゃない」とか、「いや、問題は絞首の方法ではなく、精神的苦痛が残虐なのだ」とか、それ以前に、「そもそも、どんな方法であろうと、強制的に死を与えることが残虐ではないなんて言えるのか」とか、さらに憲法の規定をのりこえて、「人を殺した人間に対する刑罰なのだから、残虐でなければ意味がない」とか、いろいろな意見が考えられるわけです。そして、そういういろいろな意見は、こっちの立場から見れば強引だが、あっちの立場からみればもっともだ、と思われるものです。

 本書の「あとがき」で述べられている著者の立場も、そのたくさんの立場のなかのひとつです。立場によって意見が対立し、問題が複雑化するのも確かですが、それゆえに物事を考える端緒となりえます。

 

▶さいごに

 著者が東京拘置所での勤務を始めたのが1955年11月、26歳のときのことです。それから1957年の12月に一斉調査が完了し、フランス留学のかたわら調査結果をまとめ、フランス語の論文「日本における死刑確定者と無期受刑者の犯罪学的および精神病理学的研究」*3を発表しています。今の私と同じような年頃ですから、それを考えると打ちのめされますが、戦前に少年時代を送った人にとって、戦後は二度目の人生のようなものかもしれません。

 それでは、著者が本書で引用していたパスカルの『パンセ』(168) を引いて、今回の感想を締めくくりたいと思います。

 

人間は、死と不幸と無知とを癒すことができなかったので、幸福になるために、それらのことについて考えないことにした。

 

(了)

 

*1:最大判昭和23年3月12日刑集2巻3号191頁。

*2:憲法36条は「残虐な刑罰を絶対に禁ずる」と規定しており、死刑が残虐な刑罰にあたるかどうかが問題となる。

*3:小木貞孝(本名)『死刑囚と無期囚の心理』に訳載。