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虫に鳥にも

読んだもの、見聞きしたものの記録に。

鈴木哲也・高瀬桃子『学術書を書く』 その3 「二回り外、三回り外」

出版(読書記録)

 

(3)読  者

 

 本書では、想定として、「二回り外、三回り外の読者」という言葉が使われます。 

「二回り外」「三回り外」の表現は……入門書の場合は、「知的関心は高いが、学問的なトレーニングは受けていない人々、具体的には大学1~2年生が読めるように」というようないい方をします。……一般の新書や選書に比べて「歯ごたえのある」内容になったもの、つまり専門性は高く、初学者が完全に理解するのは大変だが、概ね内容が摑めると同時に、学問的な意味での困難さが感じ取れる内容のものが、よく受け入れられているようです。(43頁)

ビジネスとしての適合性を考えたとき初版部数は1000部は必要だと筆者は考えています。……一領域の研究者を少々大まかにまとめてみると、だいたい1000人、多い場合2000人くらいになる。……これをいい換えると、「学術書は、自身の狭い領域を越えて、その二回りあるいは三回りくらい広い範囲の研究者を対象としてほしい」ということになります。(51頁)

  この「二回り外、三回り外の読者」という言い回しを、著者は本書で何度も繰り返します。上に引用したように、具体的、現実的、戦略的なターゲットとして、このような読者を設定していることがわかります。

 私の勤務先では、大学生の教科書として、あるいはより専門性の高い、それこそ研究成果の発表としての学術書を取り扱うことも多いのですが、1000~2000部という想定は、たしかに私自身も実感するところです。

 

 とはいえ、専門的な読み応えを確保しつつ、初学者をも置いてきぼりにしない記述というのは、その分野の研究者にとってはなかなか難しい匙加減だと思います。

自分とは少し専門領域が離れているけれども、自分の仕事を面白いと感じてくれそうな研究者、あるいは、自分の仕事に関心を持って欲しいと思う学生、大学院生などですが、こうした人々に自分の仕事の面白さを語る場面を意識すると、記述の仕方はもちろん、本の編成の仕方から変わってきます。(58頁)

 

 しかし、こうなってくると、たいていの原稿は当初の予定よりも頁数が多い状態でやってきます。初学者を想定すれば、基礎的な説明を省くわけにはいかず、研究者としてのこだわりを維持すれば、どうしても割愛することのできない箇所というのもあるからです。本書では、質を損ねてまで頁数を削減することに否定的な立場をとっています。

 ただ、当然ながら頁数は本の価格を左右します。もし他所の出版社から類似の本が出ている場合、できるだけ多くの読者を確保するためにも、その価格よりも下げるか、その価格に近い所で抑えたほうがよいわけです(本書の趣旨は「インパクトのある学術書を書く」ことにあるので、たしかに、唯一無二の絶対的価値をもつ本であるなら、そんな戦略をとる必要もないのでしょうが……)

 

(4)専門外への関心

 

 さて、先述したように、著者が本書を執筆するに至った背景には、大学改革によって学術研究の世界に競争原理が導入されたことがあります。さらに、そのような転換が、若手研究者のポスト不足問題や、専門外の専門を学ぶこと、すなわちリベラル・アーツの軽視という構造を生み出したことを指摘しつつ、そのような状況下における学術書の役割に希望をもっています。

 著者は本書の「おわりに」において、この「専門外への無関心」が、いわゆるSTAP細胞問題の根幹にあるのではないかと指摘しています。

くだんの研究者の学位論文が十分審査されていなかったという事実や、関係者が、論文内容の十分な検証を行うというよりも、どれだけインパクトのある業績かをPRすることに奔走したというエピソードを聞くと、関係する専門家自身が、実は研究内容の細部には関心を持っていなかったのではないか、とさえ疑わせるからです。(144頁)

 そして、学術書を書く研究者自身が「二回り外、三回り外」への関心持つことが大事であり、そのために本を読む必要がある、とまとめています。

学術書を「書く」とは、学術書を「読む」ことに他ならない(145頁)

 

 しかしながら、ふと思うに、専門外の関心をもつ、自分の生活に直接的にはかかわらない学術書を読む、というのは、ある種、ぜいたくな娯楽といえるのかもしれません。まずは当面の経済活動に必要なものを優先しなければならないのは当然のことです。大学改革もそのような時代の要請に応じて行われたことであり、いまは、その変化が加速度的に表面化しているにすぎないのではないか、とも思われます。

 これから、ますます、私たちは、専門外への関心をもつための余裕を失っていくのかもしれません。それと同時に、失ったものを取り返そうとする動きもまた、大きくなるのではないでしょうか。

 

 

(了)