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虫に鳥にも

読んだもの、見聞きしたものの記録に。

鈴木哲也・高瀬桃子『学術書を書く』 その2 学術書の役割

出版(読書記録)

 

(2)役  割

 

▶研究者として評価されるためには、Publishの営みを続けなければならない。しかし、学術書が評価を得るための媒体にとどまるとすれば、それは「真に意味のある出版」ということはできません。

 著者は、いまの時代における学術書の役割について、

  • パラダイム志向的な研究」の増加
  • 高等教育の様変わり
  • 社会的な知的関心は決して低くないという事実

 の3つの側面をあげています。

 

パラダイム志向的な研究

 大学院重点化によって研究者数が増大し、近年では、ポスドクの苦しい生活*1などが深刻な問題として語られるようになりました。その一方で、多くの人材を学界に迎え入れたことで、新しい視点や方法がもたらされているという事実があります。このような、既存の研究枠組みにおさまらない、領域を超えた研究のことを、著者は「パラダイム志向的な研究」*2と呼んでいます。

 

 パラダイム志向的な研究成果は、領域を超えた研究であるがゆえに、特定の領域に特化した学術雑誌では、総合的・体系的に表現することも、ただしい評価を得ることも困難になります。そこで、このような研究が目的を果たすためには「本」が不可欠ではないだろうか、と著者は語るのです。

 

高等教育の様変わり

 ……「狭義の専門以外の事柄を学んでいない」ことによる教育上の困難は、今、大学院において広く見られます。さらにいえば、以上のような「狭隘化」の問題は、学部―大学院の接続だけでなく、高校から学部へ、あるいは大学(大学院)から実業界へという、進学・進路のあらゆる場で共通しているように思えます。……必要な「情報」を必要なときに逐次的に参照すればよいという風潮が教育の場に広がったこと、あるいは「専門外の専門を学ぶ」重要性すなわち「教養」あるいはリベラル・アーツ*3重視の作法が失われたことが、こうした深刻な社会的状況を招いたのではないか、と筆者は考えているのです。(37-38頁)

 

 著者はこのように問題を指摘したうえで、学術研究が専門化・細分化しているいまの時代こそ体系的な知の習得が必要であること、そのために教育の場において「本」が大きな役割を果たすことを主張しています。

 上記の引用は、1990年代以降の教育を受けてきた世代として、ぐさぐさと胸に突き刺さる箇所でもあります……。

 

▶社会的な知的関心

 研究者ではなくても、知的欲求を持った読者が驚くほど多く、知識人恐るべし――。そんな実感から、著者は、学術書が広く社会に待ち望まれていると感じているようです。

 私自身、当面の生活に必要な知識や技術を身に着けることでいっぱいいっぱいですが、その反面、自分にはない知見に対する憧れや渇望を否定することはできません。まあ、本を好きというより、本を読む自分が好きっていう感覚もあるのですが、知的好奇心を満たすというのは、一種娯楽になりうるものだと思います。そういう気持ちをうまい具合に満たしてくれる、親切な水先案内人となってくれる学術書。そういうのが、いいかなあ……( º﹃º` )。

 

▶とは思うものの、学術書というのは当初から述べているように、研究発表の媒体です。そのことを失念して、ただ広く読まれるために易しくしては本末転倒。そういう役割は新書が十分に担っています。

 学術書としてのレベルを下げずに、間口を広くする。そのためには「誰に向けて書くか」という基準を考えてみる必要があります。

 

 

⇒その3に続きます。

 

*1:2008年、自身もポスドクであった作家の円城塔さんが、その実態を明かして話題になりました。CiNiiからPDFでご覧いただけます。

ci.nii.ac.jp

*2:もう少し丁寧にいうと「新しいパラダイムを志向する研究」です。パラダイムというのは、物の見方や思考の「枠組み」とか、分析方法の「規範」とか、そういうイメージのようです。

*3:大学における教養教育のこと。大学設置基準の大綱化の結果、多くの教養学部が解体し専門学部に転換されたました。この流れについては下記・文部科学省HPが参考になります。

【参考】我が国の大学における教養教育について:文部科学省