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虫に鳥にも

読んだもの、見聞きしたものの記録に。

斎藤茂吉『万葉秀歌 下巻』(岩波書店):老若男女、恋の歌(2)

文学・小説(読書記録)

 

▶引き続き恋の歌を選んでいきます。

 

◆君が行く道の長路を繰り畳ね焼き亡ぼさむ天の火もがも   狭野茅上娘子

 (きみがゆく みちのながてを くりたたね やきほろぼさむ あめのひもがも)

 

あなたが、越前の方においでになる遠い路をば、手繰りよせてそれを畳んで、焼いてしまう天火でもあればいい。そうしたならあなたを引き戻すことができましょう(136頁)

 

 懇意の男性が罪のため越前へ配流された時に詠んだという、なんとも情の強い、激しい歌です。電話もメールも出来ないのだから、ひとたび遠く土地が隔たれば、ふみの遣り取りはおろか、お互いの消息など滅多にわからず、今生の別れともなる覚悟が必要だったのでしょう。この「火」の表現が、嘆きというよりは、運命に対する怒りを感じさせます。それにしたってすごい発想です。

 

◆吾が門に千鳥しば鳴く起きよ起きよ我が一夜づまひとに知らゆな   作者不詳

 (わがかどに ちどりしばなく おきよおきよ わがひとよづま ひとにしらゆな)

 

もう門のところには、千鳥がしきりに鳴いて夜が明けました。あなたよ、起きなさい。私がはじめてお会したあなたよ、人に知られぬうちにお帰りください。(146頁)

 

 「千鳥しば鳴く」「起きよ起きよ」のリズムが、いかにも朝の訪れに少し焦っている調子です。はじめて夜を共にしたのならば、名残惜しいのが当然ではあっても、人目を忍んで逢瀬を交わしてこそ、ひそかごとに胸も高鳴るというもの。これが人目も憚らず朝日を浴びて帰るようでは興醒めかもしれません。夢の名残、みたいな、そういう風情が堪らなかったのではないでしょうか。会えない間に、夜の逢瀬の思い出をひっそり胸に抱いて反芻する……きっと昼間のドキドキ感も格別でしょう。

 

◆防人に行くは誰が夫と問ふ人を見るが羨しさ物思ひもせず   防人の妻

 (さきもりに いくはたがせと とうひとを みるがともしさ ものもいもせず)

 

一首は、見おくりの人だちの立こんだ中に交って、防人に行くのは誰ですか、どなたの御亭主ですか、などと、何の心配もなく、たずねたりする人を見ると羨ましいのです(177頁)

 

 自分の夫は遠い国へ防人として行かねばならぬのに、ということでしょう。そのような心配のいらない他人への羨ましさと、夫と離れる寂しさや不安、その心のざわめきがしんと響いてくるようです。こちらにまで、ふと胸に小さな穴が開いたような心境にさせられます。

 

▶下巻を一通り読み終えてみると、上巻に収録されたものとは印象がいささか異なります。これは割合はっきりとした違い……だと私は思っています。下巻のほうは、言葉の選びが率直でわかりやすく、そしてなんだか、そう、なまぐさい。悪い意味ではなく、生活臭のようなものが漂ってきます。

 

 これは、下巻に収録されている歌(万葉集巻第八~二十)が上巻のそれ(巻第一~七)と比較して、時代を下ったものであること、作者不詳や防人などの歌が多く収められていることが関係しているのだと考えられます。そして、それは同時に、感情表現としての短歌の「あたりまえさ」を示しているとも思われます。要するに、当時において短歌というものは、現代でいうところのブログやツイッター的なものだった、ということではないでしょうか。

 

 下巻に収められた数多くの恋の歌には、そこに通う感情・体温が生々しく息づいている、と思うのです。たまに、戸惑うくらいあけすけな歌(俺の妻は寝床でもかわいいが昼もかわいくってしかたない、とか)もありますからね……。

 

 

 (了)