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虫に鳥にも

読んだもの、見聞きしたものの記録に。

斎藤茂吉『万葉秀歌 上巻』(岩波書店):自然、感情、言葉の一体感(1)

 

万葉秀歌〈上巻〉 (岩波新書)

 

▶本書は、歌人である斎藤茂吉が、万葉集に収められた歌のうち、長歌をはぶいた4200足らずの短歌のなかからおよそ400首の秀歌を選んで、評釈を加えたものです。

 まずは鑑賞の心構えとして、「序」に記された著者の以下の言葉を紹介します。

 

 ……選んだ歌に簡単な評釈を加えたが、本書の目的は秀歌の選出にあり、歌が主で注釈が従、評釈は読者諸君の参考、鑑賞の助手の役目に過ぎない……。

 右のごとく歌そのものが主眼、評釈はその従属ということにして、一首一首が大切なのだから飽くまで一首一首に執着して、若し大体の意味が呑込めたら、しばらく私の評釈の文から離れ歌自身について反復熟読せられよ。

 

 歌の前では1対1、ということでしょうか。それこそ一首一首に対する著者の執着が、この序文にあらわれているようです。

 

▶それでは、印象的だった短歌の幾つかを挙げ、著者の訳をひき、私の所感を好き勝手に書きとどめていこうと思います。

 

◆引馬野ににほふ榛原いり乱り衣にほはせ旅のしるしに   長奥麿

(ひくまぬに におうはりばら いりみだり ころもにおわせ たびのしるしに)

 

一首の意は、引馬野に咲きにおうて居る榛原(萩原)のなかに入って逍遥しつつ、此処まで旅し来った記念に、萩の花を衣に薫染せしめなさい、というのであろう。(46頁)

 

 なんといっても音がよく、目に浮かぶ景色も美しい。本書には植物や季節、場所の考証も行を割いてなされていますが、これは著者がたびたび述べているように、そんな細かいことはさておいて、素直に旅の感慨を受け取るのがいいと思います。「いり乱り」「旅のしるしに」という言葉からは、浮かれた足取りと、そこに潜むセンチメンタルな感情までもが響いてくるようです。

 

◆人言をしげみ言痛みおのが世にいまだ渡らぬ朝川わたる   但馬皇女

(ひとごとを しげみこちたみ おのがよに いまだわたらぬ あさかわわたる)

 

 この訳については、うまく引用できる箇所がないのですが、「人言」は「世間のうわさ」、「しげみ」は「しげし+み(接尾語)」で「たくさんあるので」、「言痛み」は「こちたし+み」で「煩いので」の意。つまり、一首の意は、人の噂がうるさくて煩わしいので、これまで経験したことのない朝川を渡る(人目につかぬよう夜明けに帰る)、というようなところでしょう。

 ふつうは男が女に通うものですから、斎藤茂吉は「〔但馬〕皇女が〔穂積〕皇子に逢うために、秘かに朝川を渡ったというように想像すると、なお切実の度が増す」(80頁。〔 〕内は引用者補足)と述べています。

 私としては、「しげみこちたみ」の韻が面白く、この音の勢いには勇ましい印象を受けます。ちょっとぶっきらぼうで、恋人にあてこするような――つまり、「あなたのために、私がこんなことまでしている」という、いわゆる「ツンデレ」のような雰囲気を感じるのです。独立心の強い、一途な皇女だったかもしれない、と推測するのも楽しい一首です。

 

◆鼯鼠は木ぬれ求むとあしひきの山の猟夫にあひにけるかも   志貴皇子

(むささびは こぬれもとむと あしひきの やまのさつおに あいにけるかも)

 

一首の意は、鼯鼠が、林間の梢を飛渡っているうちに、猟師に見つかって獲られてしまった、というのである。(127頁)

 

 ただそれだけの歌なのですが、しんみりとしていて、しかも志貴皇子の歌には、他の詠み手にはない品があります。このしんみりとしているがために、大望を抱いて失脚したことなどを寓意したものとする説があるそうです。しかし、ここでも、そんなことは脇においてこの感傷を味わうのが鑑賞の態度であるということを、著者は記述しています。

 この一首には、むささびに対する同情や憐憫というほどのものはなく、しかし冷淡かというと、まったくそんなこともありません。ただ詠み終えた後に、しん、と静寂が訪れる……それが余韻となって「しんみり」させるのでしょうか。私自身、なぜこの変哲もない一首にこんなに惹かれるのか不思議ですが、スルメのような味わいです。

 

 

 ⇒(2)に続きます。