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谷口・綾部・池田編『セクシュアリティと法』 その1 前提と意義

セクシュアリティと法: 身体・社会・言説との交錯

谷口洋幸・綾部六郎・池田弘乃編セクシュアリティと法:身体・社会・言説との交錯』法律文化社、2017年)

 

(1)セクシュアリティと法

 

■はじめに

 「ジェンダー」「LGBT」という言葉は、今や説明を要しないほど知名度を得たように思います。多くの場合において、男性に対する女性の社会的役割、異性愛主義に対する同性愛という問題として語られ、さらには、女性に対する男性の社会的役割や、性別二元論に対する性の多様性に目を向けられることもあります。

 私たちは、人々が多様な考え方や生き方、嗜好をもつ存在であると知り、「人それぞれ」などと言いながらも、人間には一定の傾向があると信じ(あるいは、あるということにして)、その傾向に従ってカテゴリー化してしまう。カテゴリー化は人間の思考を大いに助けるものなので、これが非難されるべきとは、私は思いません。これがなければ、私たちは日々の会話にも苦労してしまうでしょう。

 しかし、困ったことに、このカテゴリーから外れたものを意識的・潜在的に異常なものとして捉えてしまうことが、しばしばあります。カテゴリー化が思考を助ける一方で、そこに収まらないものは思考を混乱させ、私たちを不安にさせます。

 ありのままを受け入れることは、存外、難しいことかもしれません。ありのままを受け入れることが理想的だともいいがたい。こうしたことは、差別やいじめなどの意識・態度にかかわる問題だけでなく、法制度や社会制度にもかかわってくるからです。この社会は、ある部分を意識的に統制したり、あるいは緩和したりして、できるだけ多くの人が過ごしやすいように設計されることが望ましい。もちろん、これは、マイノリティを切り捨てるという意味ではなく、できるだけ包括的なシステムが理想的だという意味です。

 

 さて、本書は、セクシュアリティという意味では、その一部、つまりLGBTや性的マイノリティに焦点をあてたものといえます。ともすれば、『セクシュアリティと法』という書名はいささか誤解を招きかねませんが、この意図については本書のプロローグにて言及されています。

 

 ジェンダー法学の研究成果が幅広く刊行されていくなかで、本書を編むきっかけとなった書籍が刊行された。2006年に刊行された『セクシュアリティと法』(辻村みよ子監修、東北大学出版会)である。……丁寧なテーマ設定と扱われている法分野の幅広さは、セクシュアリティの視点からの初めての総合的な研究として画期的である。しかし同時に、ある種の物足りなさも否めなかった。当時、社会学や文学などの学術領域においてセクシュアリティの問題として活発に議論されていた性の多様性に関連する視点がほとんど含まれていなかったからである。(2頁)

 

 「女性」のセクシュアリティは、まさに先述の『セクシュアリティと法』が前提としていた「セクシュアリティ」である。……本書は、(中略)「性の多様性」としてのセクシュアリティの視点を中心としつつ、性的マイノリティやLGBTを単純に対象化するのではなく、視点としてのセクシュアリティにこだわって編み上げた。いわば、先述の『セクシュアリティと法』と車の両輪的な位置において、セクシュアリティと法を論じるものである。(4-5頁)

 

 第一に、女性のセクシュアリティを前提とした2006年の『セクシュアリティと法』と、性の多様性としての視点を中心とした本書は、両輪をなすものであること。第二に、性的マイノリティやLGBTを切り離して研究対象とするのではなく、あくまでもセクシュアリティの視点から語ること。これが『セクシュアリティと法』と冠した本書の前提であり、意義であるともいえます。

  

■本書の構成

  プロローグ

 第Ⅰ部 人間身体と法

  1:性別  2:性同一性障がい  3:性刑法

 第Ⅱ部 社会関係と法

  4:親子  5:婚姻  6:暴力  7:企業  8:学校教育

 第Ⅲ部 言説空間と法

  9:人権  10:ノルム  11:クィア

  エピローグ

 

 プロローグは冒頭で触れたように、本書の前提と意義について書かれています。第Ⅰ部、第Ⅱ部の内容は実生活に結びついていて馴染みやすい(その分、悩ましい)かと思うのですが、個人的には第Ⅲ部の内容が新鮮で面白く感じたので、以降は第Ⅲ部「言説空間と法」についての感想を書いていきます。

 

▶その2に続く

 

井田良・太田達也編『いま死刑制度を考える』 その3 死刑適用基準

 

(5)日本の死刑適用基準――第4章:原田國男

 

■永山事件基準 

 本章では、日本において死刑適用基準となっている「永山事件基準」について説明がなされています。永山事件基準とは、1968(昭和43)年に、当時19歳であった永山則夫が2名のタクシー運転手と2名の警備員を拳銃で射殺した事件の、第一次上告審判決において提示されたものです*1

  1. 犯行の罪質・動機
  2. 態様ことに殺害方法の執拗性・残虐性
  3. 結果の重大性ことに殺害された被害者の数
  4. 遺族の被害感情
  5. 社会的影響
  6. 犯人の年齢
  7. 前科
  8. 犯行後の情状
  9. 一般予防

 さらに著者は、永山事件基準に明示されていないものとして、「性格・経歴・環境」「事実認定に対する一抹の不安」「余罪」の観点からも検討を加えています。

 

■被害者の数

 死亡被害者が多いほど死刑が宣告されやすい、というのは想像がつきますが、死亡被害者が1名だからといって、死刑の選択が必ずしも避けられるわけではありません。永山事件以前も、無期懲役の仮釈放中の殺人、保険金目的殺人、身代金目的殺人などには厳しい判決が下されたようです。

最近公表された司法研究*2によれば、調査対象事件346件のうち、死亡被害者1名の殺人事件が48件あり、うち18名(38パーセント)について死刑が宣告されている。……死亡被害者3名以上の強盗事件は、調査対象事件のうち、21件あり、すべて死刑が宣告されている。(67頁)

 

■遺族の被害感情

 被害感情については、その1、その2でも触れてきました。どの程度これを重視するかは人それぞれですが、 著者の経験では、死刑判断については、以下の順番で基準が重視されるようです。

 死刑判断については、被害者の数が第1である。次いで、犯行の動機、犯行の手段・方法等の犯罪自体の客観的な要素が重視される。そして、第3ランクとして、被害者遺族の被害感情、反省の程度等が考慮される。(81頁)

  著者はここで、遺族の気持ちを酌むことの必要に触れながらも、決定的な要素ではないと述べています。

遺族の被害感情が強ければ、死刑、そうでなければ、無期というのが公平であるとはどうしても思えないからである。(82頁)*3

 

 こうした観点は、あまり考えてみたことがなく、なるほど、と考えさせるものがあります。少し論点が異なりますが、 個人的には、死刑制度の問題のひとつに、被害者遺族が死刑執行の回避を望んだとしても、それが反映されないことがあると思っています(かといって、そうそう反映されてしまうような制度だと、例えば被害者遺族が死刑囚の遺族や世論から脅迫されるなどの危険にさらされる可能性が考えられます)。しかし確かに、遺族のあるなし、あるいは、被害感情の強弱で、殺人犯といえども人の生死が左右されるというのは不公平かもしれません。

 

*1:最判昭和58年7月8日刑集37巻6号609頁。以下、裁判要旨。

「一 死刑制度を存置する現行法制の下では、犯行の罪質、動機、態様ことに殺害の手段方法の執拗性・残虐性、結果の重大性ことに殺害された被害者の数、遺族の被害感情、社会的影響、犯人の年齢、前科、犯行後の情状等各般の情状を併せ考察したとき、その罪責が誠に重大であつて、罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむをえないと認められる場合には、死刑の選択も許される。

二 先の犯行の発覚をおそれ、あるいは金品の強取するため、残虐、執拗あるいは冷酷な方法で、次々に四人を射殺し、遺族の被害感情も深刻である等の不利な情状(判文参照)のある本件においては、犯行時の年齢(一九歳余)、不遇な生育歴、犯行後の獄中結婚、被害の一部弁償等の有利な情状を考慮しても、第一審の死刑判決を破棄して被告人を無期懲役に処した原判決は、甚だしく刑の量定を誤つたものとして破棄を免れない。」

*2:井田良ほか『裁判員裁判における量刑評議の在り方について』(法曹会、2012年)。

*3:「同じことを行っても、遺族がいる場合といない場合で、死刑か無期かが分かれるのは、不公平ではないかという疑問も指摘されている」(68頁)。

井田良・太田達也編『いま死刑制度を考える』 その2 修復と応報

 

(3)修復的正義――第2章:高橋則夫

 

 第2章は、被害者(遺族)の応報感情と刑事司法についての論稿です。*1

 まずは、前提として、①被害者遺族が死刑を望むのは当然の感情であること、②法は応報感情のみで行使されるわけではないこと、この2点を押さえたうえで、著者は次のように問題点を指摘します。

 

 ……むしろ、被害者感情を表明する公共の場として刑事司法とメディアしかないということが問題なのである。

 さらに、問題は、被害者感情=応報=死刑存置という等号が絶対なものかどうかにある。被害者感情が応報と結びつくのは、犯罪以前の状態への回復が困難であることからの反射的効果であるということも考えられる。すなわち、応報感情の充足の前に、回復感情の充足という課題に取り組むべきであり、その点にこそ被害者保護の実質的課題がある……。(35頁)

 

 被害者支援の不十分性が、被害者感情死刑存置に向かう要因なのではないか、という指摘です。

 「犯罪以前の状態への回復が困難」というのは、ざっくりいえば、死んだ人間は生き返らない、ということになるでしょう。だからこそ、取り返しのつかないことをしたのだから死ぬべきだという考えに至るのは、べつに特異なことではありません。

 しかし、一方で、いくら犯人が死刑になったところで死んだ人間は生き返らないのだから、それよりも被害者を支えるコミュニティを構成するべきだ、という指摘も、実にもっともな話です。

 

 とはいえ、これは死刑制度があろうがなかろうが取り組むべき課題であるように思います。いわば司法制度の「外」の話です。ただ、司法制度の「外」で構築された被害者支援の充実によって、「被害者感情=応報=死刑存置」という等号に変化を与える可能性はあるはずです。

 

(4)法的正当化根拠――第3章:椎橋隆幸

 

■アプローチ

 本章の著者は、死刑の法的な正当性を主張する立場です。

まず、議論の前提として、死刑制度を抽象的に論じるだけでなく、どのような人権状況や刑事司法制度のなかで、どのような死刑制度をもつべきかを論じなければならない、としています。

 死刑廃止は国際的な流れだといわれますが、それぞれの国の状況や司法を一つひとつ検討せずに、それだけを死刑廃止の論拠に置くのは、たしかにナンセンスだといえます。

 

 死刑は刑事司法の運用全体の中で、また、国民の基本権・自由と安全・安心な社会の継続・発展の中で適切に位置付けられなければならない。(44頁)

 

■法的正当化根拠

 死刑の是非をめぐっては、いくつかの論点があります。その中で、①誤判の危険性、②社会的弱者への差別、③政治的弾圧のための利用については、以下のように指摘しています。

 

 これらの問題を解決するためには刑事司法制度の在り方と運用を改革するのが正しい対処の仕方である。(49頁)

 

 さらに、死刑に対する批判としては、④生きる権利を侵害する残虐で非人道的な刑罰である、との主張がありますが、これに対しては、たとえば他人の財産権を侵害すれば自分の財産権が奪われるように、犯罪の種類や程度に見合った刑罰が科せられることになっているのに、なぜ「生きる権利」だけは何をしても奪われることはないのか、と反論しています(50頁)。*2

 殺人犯の生きる権利を保障すれば、記憶に新しい相模原の事件*3のように大量殺人が実行され、冤罪の可能性がない場合にも、(殺人犯の精神障害の有無はさておいて)死刑を科すという選択肢がなくなり、「犯罪と刑罰のスケールが不均衡」(53頁)となってしまいます。

 

 人間の尊厳の最も中核にある生命を奪われた場合、その価値の再確認・原状回復は損害賠償や自由剥奪等の制裁によって補填できるような価値ではない。……絶対に許されないことをした場合には自分の死によってしか(でも)その罪は償われないのだ……という規範を形成し、その規範を内面化するために死刑制度が存在する意義がある……。(51~52頁)

 

■誤判の問題

 本章では、誤判の可能性を死刑廃止の理由とする主張に対しては、誤判と死刑の問題は別次元のものであると述べられています。

 誤判は死刑にかぎらず、すべての刑事裁判に可能性があり、また、すべての刑事裁判においてあってはならないことです。誤判の可能性かあるからといって、すべての刑罰を廃止すべき、という議論は起こりません。ゆえに、誤判の可能性があるから死刑を廃止すべき、というのではなく、刑事裁判において誤判の可能性を避ける慎重な手続的方策が用意されなければならない、と主張しています(55頁)。

 

 付言すると、誤判の可能性を死刑廃止の理由とする見解では、例えば現行犯で犯人が明らかで、本人も事実を認めているような、およそ誤判の可能性が考えられない事案の場合……でも死刑廃止を主張し続けるのは不思議としか思えない。(55~56頁)

 

 本章において、ひとつ気になったのが上に引用した部分です。

 制度の中には「誤判の可能性」も「およそ誤判の可能性が考えられない事案」も含まれます。後者を見分けることはできても、前者を見分けることができない。ここが問題なのです。

 つまり、誤判の可能性を死刑廃止の理由とする見解では、「間違いなく殺人犯である人物に死刑を科して被害者感情や社会の安全に資す」ことよりも、「無罪の人物に死刑を科して命を奪うことを避ける」ほうを重視していると考えられます。

 むしろ、「人間の尊厳の最も中核にある生命」を重視するがゆえに死刑存置の立場で論じながら、死刑の誤判の可能性を他の刑罰の可能性と並べるのは、矛盾するのではないでしょうか。

 

⇒その3に続きます。

*1:本書では序章のあとに2章がくる。序章を1章とみなすスタイルである。

*2:著者は、罪刑の均衡を主張する立場から、功利主義的な廃止論を批判している。「刑罰は犯人にとって、また、社会にとって効用があるか否かを中心に考えるものではない。この功利主義的な考え方は、被害者の失われた生命の尊厳を再び侵害するものであり、遺族の感情を逆撫でするものである」(58頁・注13)。

*3:相模原の殺傷事件に関するトピックス:朝日新聞デジタル