虫に鳥にも

読んだもの、見聞きしたものの記録に。

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 生まれてきた以上、人生を否定はしないが、別に生まれてこなくてもよかったな、という気持ちはある。私は経済社会的には自分1人を生かしておくだけでトントンで、なんの余剰もない人間だ。奨学金を抱えているぶん、むしろマイナスだし。私が生まれていなければ、私を育てるのにかけた時間やお金を、母は自分のために使えただろう。

 生んでくれたことに感謝する、生まれることのできない命に思いやる、そうした感覚と同じように、しかし生まれてこなければ、生まれてきたかった、という気持ちとも無縁だと思う。生まれてきてよかった、という気持ちがわからない。それは、生きているなかで楽しいと感じるのとは別の話だ。

 

 夏に帰省したおり、祖父が「孫に会えただけで元気になる」と言って、夏バテで小食気味だったのが、その夜は人並みに食べていた。私にも存在するだけで価値のある場面があるんだな、と思って、自己肯定感をちょっとだけ取り戻した。

 人の命や人生には本当は意味も価値もなくて、だからこそ、ただ生きているだけでいいのだとは思うけど、社会のどこかに自分の姿が映る鏡がなければ、やはり生きていくのは難しいなとも思う。いてもいなくてもいいような、ただの質量。人生の帳尻を合わせられないでいる。

 

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 ここ数カ月、記録係として企画会議に出席するようになった。発言は求められず、ストレスや緊張もない。ただ、2時間の会議が月に2~4回の頻度でスケジュールに入ってくるし、それぞれに1時間のまとめ作業が付随するので、邪魔だなとは思う。1週間の仕事時間の10分の1程度を占めるわけだから、決して少ない割合ではないが、いまのところ、他の仕事に影響を与えるほどではない。

 会議に出席するようになってわかったことは、何も不毛な話し合いをしているわけではないということ。事態が紛糾してうんざりすることもあるが、発言者それぞれの着眼点もわかるし、もっともな意見だとも感じる。やけに指摘が細かい人もいる。ずれた回答を返す人もいる。私からすればお互い話が噛み合っていないようにみえるのに、当人らはさも噛み合っているかのように会話を続けるので、混乱することもある。私は事態を見守り、会議録でフォローする。

 論点がばらつき、要領を得ず、ふわっとした発言すらある会議の内容を、私はよくまとめていると思う。時々、自分の会議録を読み返しては感心している。誰もほめてくれないのが不思議なくらいだったが、先日、出席者の1人が何かの折に「よくやってくれている」と言ってくれた。そうでしょうとも。過去の会議録とは彼我の差がある。しかも回を追うごとにうまくなる。私は日ごろ、「読む」仕事がほとんどで、こういう「書く」仕事が多少なりとも入ってくるのは、技術的にもいいことかもしれない。

 

谷口・綾部・池田編『セクシュアリティと法』 その1 前提と意義

セクシュアリティと法: 身体・社会・言説との交錯

谷口洋幸・綾部六郎・池田弘乃編セクシュアリティと法:身体・社会・言説との交錯』法律文化社、2017年)

 

(1)セクシュアリティと法

 

■はじめに

 「ジェンダー」「LGBT」という言葉は、今や説明を要しないほど知名度を得たように思います。多くの場合において、男性に対する女性の社会的役割、異性愛主義に対する同性愛という問題として語られ、さらには、女性に対する男性の社会的役割や、性別二元論に対する性の多様性に目を向けられることもあります。

 私たちは、人々が多様な考え方や生き方、嗜好をもつ存在であると知り、「人それぞれ」などと言いながらも、人間には一定の傾向があると信じ(あるいは、あるということにして)、その傾向に従ってカテゴリー化してしまう。カテゴリー化は人間の思考を大いに助けるものなので、これが非難されるべきとは、私は思いません。これがなければ、私たちは日々の会話にも苦労してしまうでしょう。

 しかし、困ったことに、このカテゴリーから外れたものを意識的・潜在的に異常なものとして捉えてしまうことが、しばしばあります。カテゴリー化が思考を助ける一方で、そこに収まらないものは思考を混乱させ、私たちを不安にさせます。

 ありのままを受け入れることは、存外、難しいことかもしれません。ありのままを受け入れることが理想的だともいいがたい。こうしたことは、差別やいじめなどの意識・態度にかかわる問題だけでなく、法制度や社会制度にもかかわってくるからです。この社会は、ある部分を意識的に統制したり、あるいは緩和したりして、できるだけ多くの人が過ごしやすいように設計されることが望ましい。もちろん、これは、マイノリティを切り捨てるという意味ではなく、できるだけ包括的なシステムが理想的だという意味です。

 

 さて、本書は、セクシュアリティという意味では、その一部、つまりLGBTや性的マイノリティに焦点をあてたものといえます。ともすれば、『セクシュアリティと法』という書名はいささか誤解を招きかねませんが、この意図については本書のプロローグにて言及されています。

 

 ジェンダー法学の研究成果が幅広く刊行されていくなかで、本書を編むきっかけとなった書籍が刊行された。2006年に刊行された『セクシュアリティと法』(辻村みよ子監修、東北大学出版会)である。……丁寧なテーマ設定と扱われている法分野の幅広さは、セクシュアリティの視点からの初めての総合的な研究として画期的である。しかし同時に、ある種の物足りなさも否めなかった。当時、社会学や文学などの学術領域においてセクシュアリティの問題として活発に議論されていた性の多様性に関連する視点がほとんど含まれていなかったからである。(2頁)

 

 「女性」のセクシュアリティは、まさに先述の『セクシュアリティと法』が前提としていた「セクシュアリティ」である。……本書は、(中略)「性の多様性」としてのセクシュアリティの視点を中心としつつ、性的マイノリティやLGBTを単純に対象化するのではなく、視点としてのセクシュアリティにこだわって編み上げた。いわば、先述の『セクシュアリティと法』と車の両輪的な位置において、セクシュアリティと法を論じるものである。(4-5頁)

 

 第一に、女性のセクシュアリティを前提とした2006年の『セクシュアリティと法』と、性の多様性としての視点を中心とした本書は、両輪をなすものであること。第二に、性的マイノリティやLGBTを切り離して研究対象とするのではなく、あくまでもセクシュアリティの視点から語ること。これが『セクシュアリティと法』と冠した本書の前提であり、意義であるともいえます。

  

■本書の構成

  プロローグ

 第Ⅰ部 人間身体と法

  1:性別  2:性同一性障がい  3:性刑法

 第Ⅱ部 社会関係と法

  4:親子  5:婚姻  6:暴力  7:企業  8:学校教育

 第Ⅲ部 言説空間と法

  9:人権  10:ノルム  11:クィア

  エピローグ

 

 プロローグは冒頭で触れたように、本書の前提と意義について書かれています。第Ⅰ部、第Ⅱ部の内容は実生活に結びついていて馴染みやすい(その分、悩ましい)かと思うのですが、個人的には第Ⅲ部の内容が新鮮で面白く感じたので、以降は第Ⅲ部「言説空間と法」についての感想を書いていきます。

 

▶その2に続く